1996年9月23日10時51分。大変なプロジェクトを終えて家に帰り、3歳の息子と遊んで寝かしつけた後、グラスにビールを7:3の絶妙なバランスで注ぎ暗い部屋の中でテレビを見ているであろう時に、1つの大きな産声が上がった。これは本当にごく普通のサラリーマンが普通に仕事をして普通に生活をする何も起こらない実話の物語である。
※ここで出てくる人物名や地名は仮であり事実とは異なります。
「新元号は令和に決まりました」、ハキハキとした声でそういった。新元号の発表を知るのが、テレビでもTwitterでもなく、絶賛入社式進行中の副社長のスピーチになるとは想像もしていなかった。
まぁ冷静に考えてみれば新元号の発表は4月1日にすると前から言われていたし、入社式も同日なのだから、大事な式の最中に教科書や筆箱を巧妙に利用し、先生にばれない様しながら実際はバレバレでゲームをやる高校生のごとく、携帯をこっそり開いてTwitterを見ない限りこの状況は変わらなかっただろう。
「では続きまして、新卒社員一人ひとりからスピーチをしていただきます」少し高いく透き通ったまっすぐな声が会議室全体に響き渡る。部屋の中央から後方の14人に緊張が走る。
「相原さんお願いいたします」
「はいっ!」
自分から見て2列前の1番左にいる小学生の時のあだ名はキャッチャーと言われそうな体格をした男の子が席を立ち、国旗に一礼、会社の旗に一礼、最後に社長、福社長、取締役などお偉いさんたちに一礼をして、こっちに振り返り、黄色いビニールテープが貼ってある前で止まった。
「本日入社いたしました相原淳博です。本日は私どものために、立派な入社式を催していただき、ありがとうございます。」
これぞ体格通りと言える声量で挨拶をし、夜な夜な一人、シャーペンでルーズリーフに書いた文章をを繰り返し練習したであろう内容を話始めた。
「私の担当はユーフォニアムです。なのでUFOと覚えてください。」
何言っているんだ?この人は緊張しすぎて頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「これから吹奏楽をやりながら仕事が出来ることに感謝しながら、Wキャリア実現に向けて精一杯頑張って参りますので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。」と最後に締めて相原さんは自分の席に戻った。
うちの会社は仕事と夢を両立する事を応援するために、吹奏楽部など様々な実業団があり、高校のスポーツ推薦の様な入社があるらしい。そういう入社ならスピーチの内容も簡単に決められていいなーと心でつぶやいたのと同時に、Wキャリアの大変さやそれをやると決めた覚悟など全くわからない社会人なのだと改めて感じてしまった。
8回目の「ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。」を聞き、拍手が鳴り止んだ後、
「次は長谷川さん」
自分の番だ。
「はい!」
元気がいいねと褒められることも、もっと大きな出した方がいいよと注意される事も無いくらいの声量で返事をした。
前から3列目左から2番の席を立ち、スピーチを終えて一安心と肩を下ろす同期を横切り、事前に練習した通り、それぞれの場所に3回礼をして、黄色いビニールテープの前に立った。顔を上げると、スポットライト的な灯りの影響か、目の前に13人のスーツを着た少し肩の力が入っている同世代の男女の初々しさを感じてか、眩しいなと思った(多分ライトの影響だろう)
「本日は私たち新入社員のため、盛大な入社式を開催して頂き、誠にありがとうございます。」とGoogleで”入社式 挨拶 テンプレ”と検索してすぐに出てきそうな挨拶をした。
小学生の時から、人前で話すことはなぜか苦手ではなかった。2分の1成人式、作文の音読、文化祭の劇、就活の自己紹介など特に練習しなくてもそこそこは出来てしまっていた。ただ人前で話すことはあまり好きじゃなく、この唯一と言って良い長所を活かさずに就活をしていたことが勿体なかったなーとほんの少しだけ思った。
「自分の母は精神的な病気を持っており、子供の頃から普通に生活が出来ない状態でした。サッカーの練習に行ってヘトヘトになって洗濯物は山積みの家に冷凍食品のピラフをレンジで温めて食べる様な生活をしていました。そんな時にこの会社の様なサービスに助けてもらい、母が少しずつ元気になりちょっとずつ家事が出来るようになり、好きなバンドのライブに一人で行くほどに元気になりました。このように自分の人生を豊かにしてもらったサービスをしている会社に恩返しがしたい。自分みたいに大変な人のためにもっとこのサービスをもっと広めたいと思い入社しました。今、父も体調が悪くあまり働けない状態になってしまっているので、1日でも早く出世して父に仕事やめて良いと言ってあげられるくらいになりたいと思っているので、とにかく愚直に頑張ります。何卒よろしくお願いいたします。」
スピーチを終えた後、またそれぞれに一礼をして、自分の席に戻った。当たり前なのだが、このスピーチの内容は実話であり、本心であり、決意表明であり、入社式で緊張して最高潮にモチベーションとやる気が満ちあふれいた頃の自分が話した内容である。こうして何も起こらないごく普通の入社式が行われ、一人のごく普通の男が社会人になった。
※ここで出てくる人物名や地名は仮であり事実とは異なります。